K's 折り紙

Fractional Library

折り紙の歴史

折り紙以前

折り紙の起源は、わかっていない。

海外では、折り紙は二千年ほど前に中国で始まったといわれることが多い。しかし、これはおそらくまちがっている。この説は、紙が発明されてすぐに折り紙が始まったという臆測に基づいているが、これには何の根拠もない。中国の前漢時代の遺跡から紙が出土しているが、折り紙が行われた形跡はない。

「紙」という漢字は、もともと絹で作った書写材料を指していたという。日本語の「紙」の語源は「樺(かば)」とも「簡(かん)」ともいう。樺の樹皮も、木簡や竹簡も、書写材料である。これらのことから推測するに、紙は本来、書写材料であって、折るものではなかった。

日本では、折り紙は平安時代に始まったといわれることが多い。これもおそらくまちがっている。安倍晴明が紙で鳥の形を作ると本物の鳥に変わったという話や、藤原清輔が作り物の蛙を女に送ったという話が持ち出されることがあるが、これらのものが紙を折って作られたと考える根拠は何もない。

帖紙・畳紙(たとうがみ・たとう)と呼ばれる紙の包みがある。今日では、主に着物を包むのに使うが、古くは懐紙や化粧道具など、さまざまなものを包むのに使った。この歴史は古く、平安時代にさかのぼるが、これは単に紙を四角に畳んだだけのもので、折り紙とはいえない。

神道で使われる垂(しで)や幣束(へいそく)、形代(かたしろ)としての人形(ひとがた)の歴史も古いが、これらはもともと紙で作るものではなかった。また、現在は紙で作ることが多いといっても、折って作るとはかぎらない。日本の信仰と折り紙の起源とのあいだには、関連を見いだせない。紙と神が同音であるという人がいるが、上代日本語では異なる音だった。

「折り紙」という言葉は平安時代からあるが、もともとこの言葉は、文書の形式の一つを指す。横長の紙を横に二つ折りにしたものが折り紙である。折り目を下にして、手紙や目録を書く。江戸時代になると、鑑定書に折り紙を使うようになり、「折り紙つき」という言葉が生まれた。

折り紙という言葉を現在のような意味で使うようになったのは、昭和になってからだといわれている。江戸時代には、折り紙を「折居・折据(おりすえ)」「折形・折方(おりかた)」と呼んでいた。江戸の終わりから昭和の初めにかけては、「折りもの」といういい方が一般的だった。

日本の古典折り紙

文献で確認できる範囲で、もっとも古い折り紙の記録は、1680年に井原西鶴が詠んだ句である。「盧斉が夢の蝶はおりすえ」とある。ここで「おりすえ」といわれているものは、「雄蝶・雌蝶」と呼ばれる折り紙で、主に結婚式のとき、銚子の口につける。

小笠原、伊勢、今川の三家を中心に伝えられた武家の礼法のなかに、折り紙が含まれている。雄蝶・雌蝶や熨斗はその一例である。さまざまな用途にそれぞれ折り方の様式が定められている。伊勢貞丈の『包之記』(1764年)によると、このような礼法折り紙は、室町時代から伝えられているそうだ。

18世紀には、「折り鶴」や「奴さん」のような折り紙が、浮世絵や着物の柄などに描かれるようになっていた。ただし、当時は「奴さん」とはいわず、半分に折った形で「薦僧(こもそう)」といった。1734年の『欄間図式』には、折り鶴や薦僧のほかに、「荷船」や「足つき三方」、さらに「玉手箱」と呼ばれるユニット折り紙などが見られる。これらがいつごろ生まれたのかはわかっていない。

礼法折り紙と、折り鶴などの折り紙を区別して、前者を儀礼折り紙、後者を遊戯折り紙ということがある。しかし、江戸時代には、両者は区別されていなかったようだ。西鶴の『好色一代男』(1682年)に、主人公の世之介が「比翼の鳥」の「おりすえ」を作ったという話があるが、ここでは折り鶴のような折り紙が想定されているはずである。

また、足立一之が書いた『かやらぐさ』(1845年頃)に、折り紙の折り方が多数載っているが、ここでも、儀礼折り紙と遊戯折り紙は区別されていない。なお、『かやらぐさ』は『寒の窓』と呼ばれることがあるが、この呼び方は写本のさいの誤りに基づく。

1797年に、秋里籬島が『千羽鶴折形』を著す。当時、千羽鶴といえば、一枚の紙に切り込みを入れて、何羽かの鶴をつなげて折った。この本が世界最古の折り紙の本といわれることがあるが、儀礼折り紙と遊戯折り紙を区別しないとすれば、『包之記』のほうが古い。

これらの史料や、作者不詳の『折形手本忠臣蔵』(1800年頃)などに基づき、日本の古典折り紙の特徴をあげるなら、用紙形は自由であり、切り込みも多用される。ぐらい折りも多く、再現性は重視されない。また、和紙の特質を生かした造形が多い。模様が必要な場合は、色違いの紙を重ねて折ったり、紙に彩色したりする。

ヨーロッパの古典折り紙

折り紙は日本独自の文化ではなかった。

13世紀にヨハネス・デ・サクロボスコ(ジョン・オブ・ハリウッド)が書いた『天球論』は、17世紀中葉まで60以上の版を重ねたが、そのうち、1490年にベニスで印刷されたものの挿し絵に、『欄間図式』の荷船と同じ絵が認められる。もしもこれが本当に折り紙の船だとすると、当時の日本の折り紙は、あったとしても礼法折り紙だろうから、日本から伝わった可能性は考えにくい。

また、1614年ごろ初演され、1623年に出版された、ジョン・ウェブスターの戯曲『モルフィ公爵夫人』に「紙の牢獄(paper prison)」なるものが登場する。これが、現在「風船」と呼ばれている折り紙だという可能性がある。日本の史料に風船が登場するのは、明治時代以降である。

19世紀になると、折り紙に言及したと断定できる史料が、ヨーロッパ各地に散見されるようになる。なかでも、ニュルンベルクのゲルマン国立博物館やドレスデンのザクセンフォークアート美術館には、1810年から20年ごろに折られたものと考えられている、騎士や馬の折り紙が収められている。

19世紀の中頃、フリードリッヒ・フレーベルが世界最初の幼稚園を作った。その教育法のなかに、「恩物(おんぶつ)」と呼ばれる遊具と、「手技(しゅぎ)」と呼ばれる遊戯とが含まれていて、手技の一つが紛れもない折り紙である。

フレーベルの恩物・手技は、三つの範疇を含む。明治時代の翻訳では「物品科」「美麗科」「知識科」という。普通の折り紙は物品科で扱われる。美麗科の折り紙では、座布団折りから対称的な模様を折る。知識科の折り紙では、簡単な幾何学を教える。

当時のヨーロッパで折られていた折り紙のなかには、同時代の日本の史料に見当たらないものが多い。特に、スペインで「小鳥(pajarita)」と呼ばれている折り紙は、スペイン人なら誰でも知っているが、日本では今日でもほとんど知られていない。一方で、日本の折り紙を代表する存在である折り鶴が、この時代のヨーロッパには見られない。

ヨーロッパの古典折り紙は、45度の折り線を基本としており、日本の折り鶴や蛙のように22.5度の折り線を基本としたものは、ほとんどない。また、用紙形は正方形か長方形に限られ、切り込みやぐらい折りは、ほとんど使われない。このように、日本とヨーロッパの古典折り紙には顕著な違いがあり、両者は独立に発生したと想像される。

ヨーロッパにおける折り紙の起源はわかっていないが、16世紀から17世紀の洗礼証明書と関連があるかもしれない。当時の洗礼証明書には、座布団折りを二回ほどこしたものとか、日本で「めんこ」とか「糸入れ」などといっている折り紙と同じ折り方をしたものがある。このような「礼法折り紙」は、一説によると15世紀までさかのぼるかもしれないという。

伝承折り紙

日本が鎖国をしていた時代、日本にもヨーロッパにも折り紙があり、両者はかなりの程度独立していた。明治維新と、それに続く日欧間の交流は、東西の折り紙の融合をもたらした。

日本が教育制度を西洋にならって作り替えたさい、フレーベルの幼児教育法も日本に取り入れられ、それに含まれていたヨーロッパの古典折り紙も移入された。同時に、欧米の幼稚園も、日本の古典折り紙を取り入れた。このようにして、日本とヨーロッパの古典折り紙が混交したところに成立した折り紙のレパートリーが、今日まで伝えられ、伝承折り紙の核になっている。

また、フレーベル式の折り紙は、日本において、片面に色が塗られた正方形の洋紙という形式の折り紙用紙が作られるきっかけにもなった。伝承折り紙には、明治以降に考え出された折り紙が加わっているが、これには、折り紙用紙で折るのに適しているものが多い。反対に、和紙で折るのに適しているものには、伝承されずに忘れられてしまったものが少なくない。

伝承折り紙は、手から手へ、世代から世代へ伝えられる過程で、折り方や題名が次々と変わる。折り紙を折る子供たちは(大人たちも)、しばしば即興で新しい形を作る。この伝承折り紙の創造性が、フレーベルが折り紙を手技に含めた理由の一つであった。ところが、現在の折り紙教育は、先生が教える折り方をなぞるだけになってしまった。そのため、折り紙は模倣にすぎないと誤解され、教育界から排除される傾向にある。

伝承折り紙は、人の移動にともなって、ときには国境を越え、突然遠く離れたところに伝わる。日本の折り鶴は、明治の初めにヨーロッパに渡り、「羽ばたく鳥」となった。さらに、羽ばたく鳥をもとにして、19世紀の終わりから20世紀初めにかけて活躍したミゲル・デ・ウナムノが、多くの折り紙を考えたことが知られている。

なお、当時のヨーロッパでは、折り紙を「origami」と呼ぶことは、もちろんなかった。ドイツ語で「papierfalten」、英語で「paper folding」といっていた。日本がフレーベル式の折り紙を取り入れたさい、幼稚園では「摺紙(しょうし・たたみがみ)」「紙摺み」、小学校では「折紙細工」「折紙」と訳したが、これらの言葉は一般には広まらなかった。スペイン語では「pajarita」が、折り紙の鳥を指すだけでなく、折り紙一般を指す言葉としても使われる。

伝承折り紙は、東西交流のなかで生まれ、育まれた。それは、決して日本独自の文化ではなく、本質的に日欧の雑種なのである。伝承折り紙は、日本においてもっとも盛んであるのだが、ヨーロッパや南北アメリカ、中国などにも、20世紀の初めには確実に伝えられている。

近代折り紙

伝承折り紙では、それぞれの折り紙の折り方や題名は、特定の人物が考え出したものとしてではなく、本質的に匿名のものとして伝えられる。20世紀になると、それとはまったく異なるパラダイムに基づく、近代折り紙が成立する。そこでは、折り紙の折り方は、「折り紙作家」が「創作」した「作品」であるとされる。

近代折り紙は、内山光弘に始まるといっていいだろう。内山は、自身の作品の特許権を登録したのである。今日では、折り方としての折り紙作品が著作物だと考えている人が多いが、折り紙の折り方に対して特定の個人が知的所有権を持つという考えは、近代折り紙に特徴的である。

近代折り紙では、創造性は創作者に帰せられ、折り手が鑑賞者となる。そこで、でき上がりの形が好ましいことだけでなく、途中の工程が好ましいものであることがよいこととされる。また、折り手が作品を折るときに、折り方が変わっては困るから、再現性が重視される。

折り紙の折り方を表した図を「折り図」という。近代折り紙では、折り図は、作品を表す手段として重要視され、すべての工程が描き表される。折り方を図に表すこと自体は、日本の古典折り紙でもおこなわれていたが、すべての工程を描くのではなかった。

さて、近代折り紙では、折り紙のパズル的側面が強調されることがある。折り紙を、制約のもとで対象の外見を写し取ることと考えるのである。なかでも、一枚の正方形の紙を糊もはさみも使わずに折るというルールをかかげることが多い。

不切正方一枚というルールの背景には、折り紙には折り紙用紙を使うという暗黙の前提がある。折り紙用紙さえあれば、ほかに何の道具も使わずにできることが、折り紙の利点だというわけだ。だから、紙を何枚か使う場合でも、同じ大きさの正方形の紙を使う場合が多いし、糊を使わずに組み立てられることがよいこととされる。

近代折り紙はまた、折り紙作家同士の交流を通じて、折り紙の普及を促進した。1950年代から60年代にかけて、吉澤章、高濱利恵、本多功、ロバート・ハービン、ガーション・レグマン、リリアン・オッペンハイマー、サミュエル・ランドレット、ビセンテ・ソロルザノ=サグレドらを中心として、国際的な折り紙サークルが形成される。

彼らの手によって、日本、ヨーロッパ、南北アメリカの折り紙作家の作品が、日本語および英語で出版され、また各国に折り紙団体が設立された。オッペンハイマーの呼びかけで「origami」という言葉が国際語になったし、吉澤が使用していた折り図の表記法が、ハービンやランドレットらに採用され、国際的な標準となった。

数学的折り紙

折り紙では、ある作品を作るときの途中の形から、別のさまざまな作品を作るということが、しばしば行われる。そのような途中の形を取り出し、幾何学的な分析に基づいて体系的にまとめたものを、基本形という。そのもっとも古い例は、1930年代の内山光弘、1940年代のビセンテ・ソロルザノ=サグレドなどに見られる。

近代折り紙における創作は、既存のいくつかの基本形に大きく依存している。折り鶴を折るときの途中の形が鶴の基本形だが、鳥を折るのに鶴の基本形を使うのはもちろん、動物を折るのにも、花を折るのにも、鶴の基本形を使う。三角形の紙で鶴の基本形を折ったり、鶴の基本形と蛙の基本形を組み合わせたり、若干の変化を加えることがあるが、まったく新しい基本形を作るということはまれである。

基本形を折って、それを広げたときの、折り目の位置を示した図を、展開図という。1980年代以降、展開図の幾何学的分析によって、新しい基本形が自由に作れるようになった。それにより、基本形の意味が大きく変わった。創作家は、たとえばペガサスを折るのに、既存の基本形から適したものを選ぶのではなく、ペガサスの基本形を作るのだ。

このような数学的折り紙は、前川淳とピーター・エンゲルによって、独立に始められた。彼らは、既存の基本形の展開図が、特定の何種類かの三角形や四角形で構成されていることに注目する。展開図を、そのような「原子」にまで分割してしまうと、それらを比較的自由に組み合わせることによって、新しい展開図を作ることができる。そうすることで、実際に作品を折る前に、作品の設計図を描くことができるようになる。

さらに、基本形を独立した領域の集まりと見なし、領域の長さと布置によって特徴づける理論によって、任意の領域の長さと布置が与えられたとき、それを実現する基本形の展開図を生成するアルゴリズムが、目黒俊幸、川畑文昭、ロバート・ラングらによって見つけられている。ラングの TreeMaker は、このアルゴリズムに基づいて折り紙の創作を支援するコンピュータプログラムである。

ほかにも、既存の基本形に頼らない創作法があるが、そのなかで広く応用されているのが、多数の平行な折り目から構成されるボックスプリーツである。これはすでに1970年代から、マックス・ヒュームやニール・イライアスらによって、盛んに用いられた。

現在では、これらの創作法を組み合わせることによって、正方形の紙を一枚だけ使って、はさみを使わずに折るだけで、複雑な作品が作れるようになった。そのため、数学的折り紙では、折り紙のパズルとしての側面がますます強調されている。つまり、不切正方一枚というルールのもとで、どれだけリアルな、あるいはどれだけ複雑な作品が創作できるかということが競われている。また、でき上がりの形と途中の工程だけでなく、展開図も作品の重要な構成要素だと見なされる。

芸術的折り紙

「折り紙」という言葉は、「折る」と「紙」とが合わさった言葉である。折り紙とは、紙を折ることによって成り立つ。しかし、折り紙のパズル的要素が強調されるとき、このことが忘れられる傾向がある。すなわち、紙は、正方形や長方形といった、単なる幾何学的形状に還元され、折りもまた幾何学的操作に還元されてしまう。

日本の古典折り紙をふり返ってみれば、折り紙が幾何学だけで成り立つものではないということが明らかである。江戸時代の作品には、和紙の特性を生かしたものが多い。「なまず」や「蓮」「千羽鶴」などは、和紙で折れば簡単に折れるが、洋紙で折ろうとすると破けてしまう。また、礼法折り紙は、形を作ることに要点があるのではなく、なにより折り手の心映えを表すものである。

1950年代以降、吉澤章が、紙を折ることによる表現を追求し、折り紙に芸術としての可能性があることを明らかにした。吉澤は、折り紙の表現力を飛躍的に高め、現在の芸術的折り紙に大きな影響を与えている。吉澤の折る折り紙は、単に対象の外見を写すのではなく、情緒的な表現にまで到達している。彼の作品は、生きているように見えるのではなく、それ自体が生きている。

1960年代には、内山光弘が「花紋折り」を作る。これは、帖紙を幾何学的に拡張することにより、抽象的な模様を折るものである。抽象折り紙自体は新しいものではなく、フレーベルの美麗科の折り紙にまでさかのぼるが、内山は、自ら染めた和紙を重ね折りすることにより、比類のない造形を実現している。

芸術的折り紙は、紙が持つ潜在的な表現力を、折りによって引き出すものである。だから、紙の選択が重要であるし、紙に手を加えて紙の表現力を高めることもある。内山の花紋折りが好例である。吉澤も、紙を湿らせてから折るウェットフォールディングや、紙の切り口による表現を始めた。さらに、マイケル・ラフォースは、自分で紙を漉いている。

芸術的折り紙では、折り上がった紙が作品であり、それを見る人が鑑賞者である。創造性は創作者と折り手の両方に帰せられる。作品の折り方や展開図は、直接には観賞の対象にならない。また、同じ折り方でも、紙を変えたり、折り手が変わったりすれば、違うものができるから、芸術的折り紙では、再現性は存在しない。

芸術的折り紙は、近年、欧米において盛んである。抽象的な折り紙ではジャン=クロード・コレイア、ポール・ジャクソン、バンサン・フロデュレール、具象的な折り紙ではエリック・ジョワゼル、マイケル・ラフォース、ザン・ディンらが代表的である。

K's 折り紙 > Fractional Library > 折り紙の歴史
羽鳥 公士郎